真心の赤土坂に まちあわせ いきてかへらぬ 誓なしてき
元宮内大臣で、動乱の幕末期を駆け抜け、生き抜いた最後の生き証人としても知られる田中光顕(たなかみつあき)は、天保14(1843)年、土佐国高岡郡佐川村(現在の佐川町)に、深尾家の家臣、浜田金治の息子として生まれました。
郷校・名教館で学び、叔父・那須信吾の影響を受け、文久元年(1861)、武市半平太を盟主とする土佐勤王党に入党。
3年後の元治元年(1864)には、同志らと土佐を脱藩。その時の決意を詠んだのが冒頭の句です。
以後田中は長州へ脱藩し、志士としての活動に奔走します。
坂本龍馬や中岡慎太郎らとともに薩長同盟の実現に尽力。
龍馬と慎太郎が暗殺された際、現場に駆け付けた一人としても知られています。
明治新政府では、陸軍少将、初代内閣書記官長、警視総監などの要職を歴任。明治31(1898)年からは、12年間という長い間宮内大臣をつとめました。
政界引退後は、維新で亡くなった志士たちの顕彰に殊に尽力します。
志士たちの顕彰を目的として、武市半平太の雅号を冠した「瑞山会」を結成し、記念碑建立や伝記の編集を進めるなど、志半ばでこの世を去ったかつての同志らの地位や名誉を回復するための活動を熱心に行いました。
この活動の中で残された遺族の名誉を回復し、さらに生活面でも救済しており、当時困窮していた武市の妻・富とその家族は田中光顕の活動により救われたと言います。
さらに、田中が集めた資料の多くは、青山文庫(現佐川町立青山文庫)に寄贈され、いまも当時の貴重な記録として展示されています。
無念の同志たちの功績を復活させた郷土の偉人は、昭和14(1939)年、97年の生涯を終えました。
従一位勲一等伯爵。号は青山。